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最新情報一覧 |
吉報が届いた。
第50回
それは突然やってきた。
オーストラリアのホテルオーナーが日本での総販売代理店を探しているとのニュースであった。
ゴールドコーストに本拠地を置くシェブロンホテル・チェーンであった、とはいっても、当時旅行会社社員は、ゴールドコーストと言えば「アフリカの黄金海岸」程度の知識しかなかった。
それほど、オーストラリアの知識が乏しい時代であった。
すぐさま、シドニー経由でゴールドコーストに飛んだ、400室程度の大きなビーチホテルであった。
交渉はうまく行き、ゴールドコースト、シドニー、メルボルンの3か所を含めたホテル・チエーンの
日本代表になったのである。
すぐさま、当時、オーストラリアに力をいれていたJ社に営業をした。たまたま、J社には私と同時期、ニューヨークで駐在員をやっている方がオーストラリアの企画等の統括をやっていたので、話はとんとん拍子に進んだ。
ゴールドコーストのホテルからは毎日50室のブロックを日本人用としてもらった。そして、そのホテル内に連絡事務所を設置、弊社から駐在員をおくった。
これを機に、J社からも安定したお客様がゴールドコーストのホテルに宿泊するようになった。
弊社の駐在員は殆ど、毎日、ホテルのバンを利用して1時間半程度離れたブリスベン空港へJ社等客を迎えに行った。
まだ、どの日本人の会社もゴールドコーストに進出していない時代であった。
弊社の名前は一度にオーストラリアや日本の関係している旅行会社に浸透して行った。売上も毎年、倍増という嬉しい時代であった。
新参者である弊社が入った事により、それまで、オーストラリアを専門にやっている会社から、嫌がらせ的な発言もちらほら耳にはいってきた。
オーストラリアは大きな大陸なのに、狭い、閉鎖的なマーケットと痛感した。
やがて、このシェブロンホテルの責任者はケアンズのホテルオーナーに華麗なる変身を遂げた。ケアンズは今日でこそ、皆に知られるようになったが、当時はまだ未開の地で、日本からは直行便も無く、非常に不便であった。
ケアンズに飛んだ、250室のトレードウエインドエスペレネードのホテルオーナーとなっていた。グレートバリアリーフからの風が届く、快適なホテルであった。そして、チェーンホテルとして3か所も建設されていた。このようにして、彼は弊社にケアンズのホテルも快く、弊社に日本の代表を認めててくれた。つづく
自分への戒め
良い時がつづくと、その後が恐ろしい、人生必ず、昼と夜が来る。身を引きしめよ。
オーストラリアにかける夢
第49回
当時、オーストラリアは今日のように知られてなく、まったく、マーケットに浸透していなかった、どうやってマーケットを広げるか、殆ど毎週T氏と話し合いを重ねた。年間3万台の観光客を大きく増やす事、これが私の決めた目標であった。
人がやっているものを追っかけても仕方無い、ハードルは高いけれど、あえて難しい目標を選択した。まずは、オーストラリアを知るべきであった。QF等の協力を得て、ブリスベン、シドニー、メルボルンへ旅行をした。9時間の飛行時間はこたえたが、なかなか将来性がある観光地と考えた。
最終的にT氏の協力のもと政府観光局の協賛を得て、2千万円の広告枠が確保出来た。当時は旅行会社がTVでスポットを流すのは初めてであったと思う。8チャンネルと10チャンネルに30秒のスポット広告を10回程いれた。「2頭のカンガルーがボクシングするようなしぐさ」のかわいい映像であった。また、4チャンネルの「ズームイン」にも2週間にわたってテロップ告知を行った。
女性週刊誌、主要女性雑誌にもカラー広告を行い、一挙にオーストラリアのイメージを上げる事に専念した。毎日、カレンダーに本日の予約人数を書こんでは自分を鼓舞していたが、なかなか数字が上がらない、4名予約が入ったと思うと、2名取消、このような状態が数カ月続き、当初の予測では千名をかんがえていたが、200名程度の低い集客に終わった。
このようにして、最初のプロジェクトは低調に終了した。
その後は、主要旅行会社に「オーストラリア」の良さを説いて回った。しかし、いずこも反応はにぶかった。オーストラリアというと、又、出直してくるようにというような風潮が強かった。
それでもめげずに、営業活動を行った。結局、初年度は全体で500名程度の集客に終了した。
しかし、確実に何かが動き出しているような躍動感を感じた、というよりも、自分自身を奮い立たせてどんどん追い込んで行くしか仕方無かった。
私にはオーストラリアしかないと考えた、やがて「オーストラリア専門のサンワールド」という
看板をかかげてしまった。
専門業者に徹したのが功を奏したのか、2年、3年と過ぎる内に、多くの旅行会社から問い合わせが
届くようになっていた。社員も12-3名に増え、青山通りの一等地に事務所を構えた。
全てが、また、順調に進み出すような充実した毎日が訪れようとしていた。つづく
自分への戒め
「2兎を追うもの1兎も得ず」と先代の人は良くいったものである。大きな事を成就する時は、一つの事に専念せよ、あれも、これも考えれば、必ず失敗する。
見ず知らずのオーストラリア
第48回
ニューヨーク時代、親しくしていた、パンナム航空のT氏が突然連絡をしてきた。彼は、1年ほど先に日本に帰国していたが、私が日本に帰国、会社を開いた事をどこからか聞いてきたようであった。
久しぶりに会うことになった。T氏はオーストラリア政府観光局の次長として、活躍をしていた。彼から、一緒にオーストラリア観光の促進をやらないかと声をかけられた。
私にとって、オーストらリラの事など、一つも知識がない、シドニー、メルボルン等といわれても、その地理関係さえ描けないし、全く無縁の場所であった。
しかし、かれは何度も熱っぽくオーストラリアのすばらしさを話し、いつしか、私も彼の説得にまかれていった。当時、オーストラリアはまだマイナーな観光地であり、年間3万6千人程度しか渡航していなかった。
実績も無い、会社が一体どうやってオーストラリアの販売促進をやって行くのか見当すらつかなかった。まずは、オーストラリアについて、知識を得ようと、色々な本を読みあさった。
限られた知識で多くの旅行会社へ営業活動を行った。オーストラリアは新会社の核となると考え、真剣に考えた。
当時、QF、JLが日本からシドニーへの直行便を就航させていた。しかし、実績の無い、弊社はQFからも相手にされなかった。仕方なく、私は、友人であった、香港の旅行会社の社長に連絡、香港発、シドニー行きのQFの座席を確保、日本から香港まで他の航空会社でつなぎ、香港からオーストラリアは香港の旅行会社でチケットを発券する方法を考えた。
しかし、弊社の方式を知ったQFの部長が弊社を訪れ、弊社が香港経由で行っている、方法はよくないとお叱りを受けた。結局、私はその方法を断念したが、逆に、QF日本でも、弊社の存在を何とか認めてくれるところまで来た。だからと言って、QFにはまだ実績が全然無い、会社であった。
私はT氏と、オーストラリア政観の販売促進支援が出来ないか相談を重ねた、そして、それを、オーストラリアの起爆剤に出来ないと真剣に交渉をした。つづく
自分への戒め
無から有を生む。非常に難しく、困難な事である。しかし、創造なくして、進歩は無い。
日本での新たなるスタート
第47回
日本での新たなるスタート
アメリカと日本で経験してきた社長自身の事実を「人生記」として連続ブログで掲載しています。
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